トップページの写真の履歴とコメント(2005年5月)



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  • タイトル:沖縄県那覇市の那覇空港
  • 撮影日:2005年2月13日
  • 掲載期間:2005年5月17日〜2005年6月5日
  • コメント:那覇空港は1933(昭和8)年、日本海軍により小禄飛行場として設置され、その後本土と台湾を結ぶ中継基地として整備拡張され、軍民共同で使用されていた。1945(昭和20)年、米軍の沖縄占領とともに那覇航空隊の管理「那覇飛行場」となり、大規模な拡張工事によって今日の空港に近い姿となった。1972(昭和47)年、沖縄の本土復帰にともない飛行場は長い間の米軍管理の手を離れ、運輸省所管の第二種空港に指定され、名称も那覇空港と改められた。そんな歴史を知ってか知らずか、マーシャラーの制止に従うB767-300を横目にポケモンジャンボが飛び立っていった。
  • タイトル:愛媛県北宇和郡吉田町の法華津峠より望む法花津湾
  • 撮影日:2003年3月22日
  • 掲載期間:2005年5月10日〜2005年5月17日
  • コメント:一般国道56号の旧道法華津峠より望む法花津湾は足摺宇和海国立公園に指定される風光明媚な地であるが、戦国時代の戦略上の要衝であり、大友氏、長曾我部氏などとこの地の豪族法花津氏の戦の舞台となった。この地を北宇和郡吉田町側では「法花津」、東宇和郡宇和町側は「法華津」と呼ぶため、峠は「法華津峠」だが、吉田町へ下りる坂は「法花津坂」という名称がつけられている。
  • タイトル:佐賀県武雄市の武雄温泉楼門
  • 撮影日:2005年4月17日
  • 掲載期間:2005年5月3日〜2005年5月10日
  • コメント:竜宮城を髣髴とさせる武雄温泉の象徴とも言うべきこの楼門は1914(大正3)年に武雄温泉組(現在の武雄温泉株式会社)が計画し、設計を日本の洋風近代建築の第一人者であり地元佐賀県唐津出身の辰野金吾に依頼したとされている。しかしながら、辰野金吾はこの時期東京駅の設計等で多忙を極めており、この楼門の設計ははおそらくは辰野金吾の共同設計者である葛西万司に一任されたものと考えられる。この楼門を潜り、中の共同浴場に通う客は年間延べ45万人にも達することは、温泉の素晴らしさもあるだろうが、この楼門の素晴らしさも大いに寄与していると考えたいところである。