|
今月の日記タイトル一覧(クリックするとその日の日記へ飛びます) |

本日夕方には五木ひろしばりに「♪長崎から船に乗って〜♪」との縛りがあるため、目が覚めると早々に車を西へと進める。関門橋を渡り九州に上陸し、小倉からは若戸大橋を渡って若松に着く。今回の旅の目的は原点回帰であり、まずは九州の中でも1、2を争うトレースが難しい国道である一般国道495号のトレースにかかる。
この意味不明な右左折を繰り返す道路を走り行くうちに、そうだなあ、この意味不明な理不尽なトレースが楽しいと思ったからこんなディープな世界にどっぷりとつかるようになってしまったのだと再認識をしたのである。途中宗像大社と宮地嶽神社で御朱印を頂き、さらに西へと進む。宗像神社の特攻服での参拝禁止だとか異様にでかいおみくじ機などをみるにつけ、何か懐かしいものを思い起こしたりする時点ですでに旅行モードにどっぷりとつかっているものである。宮地嶽神社では日本一の大注連縄なんかを見物し、出雲大社とどっちがでかいのかを考えたり、注連縄に賽銭を埋め込んだりと楽しく時を過ごしてみる。
さて、495号は古賀あたりで全く動かなくなったのでトレースはあきらめて3号にスイッチし、そのまま都市高速と西九州道を利用して唐津へと抜ける。唐津で昼飯を食べ、そこから先は海岸線の国道をきっちりと走って伊万里へ。
途中名古屋在住の友人とばったり出会うなどといういつもながらの出会いをし、お互いの健闘を祈って分かれる。時間が厳しくなってきたので、佐世保三川内から高速に乗り長崎出島道路で長崎のど真ん中に出てくるといういつもながらに驚かされる道路で長崎市内に到着。フェリーターミナルがオサレに改装されたところで「大波止」という名前が消えるわけではなく、フェリーターミナルはいつもながらの賑わいを見せていた。折りしも長崎は「帆船祭り」なるイベントを開いており、道路が混雑していたので困ったものであったが、何とか出港時間に間に合わせて船に車を載せる。港を出た船は港内を進み、女神大橋を潜って港外へとでようとするが、実は船から帆船祭りを見るということは、一番見ごたえのある場所を独り占めしていることであり、なるほどこれはまことに結構なことであると新たな認識をした次第であった。3時間ほどの船旅の末、福江に到着したのは夜9時前であり、宿に車を泊めて五島の幸をいただくべく町に繰り出す。死後硬直の解けきらない新鮮な海の幸に感服し、キビナゴの素揚げやイカの刺身などを頂きつつ、夜は更けていったのである。島の旅はこれが楽しみなのである。戻る↑
越中境PAで目を覚まし、いざ西へと進路をとる。旅情を無闇に書き立てるべく朝ごはんから富山のますのすしを食べてしまうところに無理矢理の感があることは否めないが、富山に来たら食べてしまうものである。
高速道路を敦賀で下り、まずは気比神社に向かうこととした。日本三大松原の一つである気比の松原は白砂青松の不幸明媚な地であり、敦賀に行く機会があれば一度は訪れてみたい名勝である。敦賀に何度も来ているというのに訪れることがなかったこの名勝は、今回もパスされるという憂き目に会い、気比神社で御朱印をいただくのみで次なる目的地へと移動してしまう。続いて小浜で若狭彦神社に参拝して御朱印をもらい、神職さんのお話を聞いて勉強をさせていただく。神職さんいわく「うちが下社で、若狭姫神社の御朱印もあるけどいっとく?」ということなので朱印帳の見開きにきっちりと御朱印を並べて押してもらい、なかなかに満足な滑り出しである。この神社で勉強したことは「自動車は、車体やタイヤの原材料である鉱物、植物、それにガソリンという天地自然の恩恵と、人間の尊い勤労とによって産み出された「神霊の宿る生きもの」なのです。」ということであり、なるほど車の御祓いとは斯様な高尚なコンセプトに基づくものであったかと己の不勉強ぶりを恥じ入るばかりであった。
車を西に進めて粟鹿神社でも御朱印をもらい、社務所でまったりとお話を聞いたりしていざ鳥取へと向かう。鳥取の手前で岩井温泉でまったりと結構なお湯につかり、これまでの移動の疲れを癒す。温泉の係員と思しき爺さんが「一番奥の浴槽はなんか浮いてるから入らんといてください」という注意をしていたが、その爺さんが全裸であるのは説得力を持たぬものである。とりあえずなんか浮いているという浴槽はパスし、隣の浴槽でまったりとすごす。岩井温泉はこれまで3度ほど訪れているが、湯かむり会館は今回初利用であり、共同浴場の素晴らしいお湯を満喫できたのであった。鳥取からは津山に向かうべしと計画を立てていたのであるが、用瀬あたりで道路が完全に渋滞してしまい、どうやらにっちもさっちも行かなくなったらしいので、かなり強引な迂回路を見つけ出して奥津温泉経由で院庄に到着し、ぎりぎり8時前に高速に乗ることに無事成功する。ここから先ひたすら中国道を走る予定にしていたのであるが、これから先の中国道は道が適当にくねくねする山道であり、しかも交通量が劇的に少ないのであまり運転していて楽しいものではないと判断し、東城で下りて福山まで行き、福山から山陽道で西に向かう。いい加減眠くなったので宮島SAで没する。戻る↑
船は当初の目的とは異なる使われ方をすることがよくあり、そのたびに艤装を施しなおして何度も生まれ変わるものである。南極観測船としてその名を広く知らしめた「宗谷」はソ連からの注文をうけて長崎県の香焼島でボロチャエベツ号としてその生を受けるが、進水を迎えたのは折しも第2次世界大戦勃発の時期であり、ソ連に引き渡されることなく地領丸として活躍することとなる。商船であった地領丸はもともとソ連からの発注ゆえに身につけていた耐氷能力が災いし、海軍により徴用され、特務艦宗谷として配備されることとなり、北洋で物資や兵員の運搬に任るのであった。しかしながら戦局の悪化とともに海軍の所有する船舶は次々と轟沈し、宗谷も北洋だけでなく南洋にもその仕事場を拡げることとなったのである。米軍潜水艦からの魚雷が命中するものの不発弾であったため沈没を免れるなどという数奇な運命に翻弄されたこの船は、戦後は樺太からの引揚船の任務をこなし、その耐氷能力と不思議なまでの運の強さを買われて南極観測船として表舞台に復活するのである。宗谷の歴史を繙けば斯くも数奇な運命に愕然とするばかりである。さて、本日東京宮崎間のフェリーを運航するマリンエキスプレスが航路の廃止を申し出てしまい、運行されていた「フェリーひむか」がお払い箱になることが決まったのである。フェリーひむかはかつては「れいんぼうべる」という名前で横須賀大分航路に就航しており、その昔は九越フェリーで活躍をしていたのである。このれいんぼうべるは宗谷とは異なり、昨今の原油価格の高騰に翻弄される運命を辿っており、戦時中の宗谷とはまた異なる数奇な運命の持ち主なのかもしれない。戻る↑
日本一の桜を見るためならば、多少の苦労は厭わぬものである。5時に目が覚めて郡山を立ち、三春へと移動する。すでに会場近辺の駐車場はかなり詰まっており、午前6時というにすでに全開モードまっしぐらである。
遠く名を聞く三春の滝桜は見事な桜であり、この桜の娘だの孫だのという桜がこの近辺あちこちにあり、孫ですらその樹齢は画一的なハイブリッドとして全盛を誇るソメイヨシノの寿命をはるかに凌駕しており、この桜に今更御年を聞くことも野暮というものである。三春の地名の由来どおり、
ウメモモサクラが同時に開花するこの地は寒冷にして春を待ち焦がれる思いが強い所為もあるだろうが、この滝桜は素晴らしいというものであり、一度は来て見たかったという思いが果たせたこともあって朝の6時半で本日の目的が達成されてしまったりもするから驚きである。気がつけばデジカメの画像は200枚をゆうに越しているというこの上ない被写体を後に進路を北に取り、高湯温泉の共同浴場を目指す。安達屋旅館の前にあるこの共同浴場は源泉かけ流しの素晴らしいところであり、硫黄泉のやわらかいお湯にはいってまったりとすごせば時の流れはゆったりと過ぎていくかのようである。朝から冷え込んでいる外に長くいたがために体が温まるとほっとして次は腹が減ったことに気がつくというのが常道であり、この素晴らしい温泉地を後にして昼飯を食べるべく喜多方に向かう。喜多方ではあべ食堂でラーメンを食す。チャーシューの種類が3種類あるという細やかな気遣いとその素晴らしい味わいに満足し、桜と温泉と食という人生の三大欲求を満たしてくれた福島に感謝して帰路に着く。帰りに南平台温泉観音湯に立ち寄り、関東平野の温泉とはこのようなものだなとそのギャップを確認して帰宅。素晴らしい思い出ができた週末であった。戻る↑

先々週の空振りを思い起こし、今週こそ三春の桜を見に行こうということになった。友人と出かけることとなったのであるが、友人が昼過ぎまで野暮用が発生したということなのでおとなしく一人で先に出て郡山で合流しようということとなった。郡山に如何にしていくかを考えたときに、いまだに乗っていない鉄道を巧みに繋ぐという作戦は極めて魅力的なものであり、それが故に地図を眺めてプランを練ることに余念がなかった。
かくして本日はそれを決行することとなった。まずはつくばエクスプレスで南流山に向かう。郡山に行くというのに最初から方角が逆である。そして武蔵野線に乗り換えて西船橋に向かうのである。そのあとは新宿まで総武線に乗り、新宿から小山までは湘南新宿ラインを利用する。新宿で「新宿弁當」なる駅弁などを買い込み車窓を眺めつつの昼飯にプチ旅行気分が高まるものである。小山までは利用した事のある路線であるが、ここからが利用していない路線である。
水戸線という一般国道50号に並走するがローカル線である列車に揺られて2時間で友部に着き、友部からは常磐線で水戸に着く。水戸線の印象が薄いのは小山からすでにビールをかっくらっていてうつらうつら過ごしたからだというわかりやすい言い訳があるが、それを差し引いても中途半端に開発されている田舎の風景は印象に残らぬものである。水戸からはいよいよ本日のメインイベントである水郡線の走破である。常陸太田に抜ける支線があるということは今後の課題であるが、水郡線はそのローカルさと「日本で一番おしゃれである」水戸の女子高生が一杯の社内という不思議な組み合わせが妙味であり、くしの歯が欠けるように乗客が減るにつれ、ローカル色豊かな車窓風景が広がるという寸法である。自然が溢れ、是でもかとばかりに桜が満開であり、車窓から十分と春を感じて夕刻に郡山に到着する。郡山で友人と合流し、お宿に荷物を置いて飲みに出る。旨い魚と地鶏に満足し、〆の会津そばに感激して夜は更けて行った。戻る↑
肖像権という考えはあっても、法的根拠を持たぬ日本にあっては「有名税」などという不思議な表現で「甘んじて受け入れよ」という風潮があった。その考え方はインターネットの普及に伴い、利害の衝突が増えてきたがために改めてこの権利を法的根拠に基づいて確立するべきであるということとなり、現在は既存の法律の運用により法的根拠を確立せんとしている。インターネット黎明期において女性タレントの顔写真を別の写真と挿げ替えるというコラージュを施した画像が「アイコラ」という名称で出回り、大問題となったのは記憶に新しいところである。かつてはそのコラージュ作品を作ることに注力し、切磋琢磨して己の技術の向上に是努めていた御仁もいたのであり、その技術をコンペ形式でサイトで公表していたということもあり、今にしてみれば牧歌的もいいところである。本日はそのようなよろしくない自体に対し「やっぱりよろしくないです」という判決が下されたのであったが、いまだに法律が出来上がらない理由は「個人的な楽しみを制限するとはどういうことだ?」という不思議なシュプレヒコールを些かヘンコな方々が揚げているからではなく、肖像権が拡大解釈されるようなことがあれば、公的な人間の悪巧みを暴く報道機関に対して法的根拠に基づいて制限を加えることができる可能性があるからである。日本人は極端に走る熱しやすく冷めやすい民族であるがゆえ、この勢いで法律を作ることが果たして将来に禍根を残さぬものであるかは微妙なものがある。戻る↑
プロ野球選手の選手生命とは短いものであり、無事是名馬といわれる選手でも20年も続けることができぬものである。それゆえ引退までをいかに選手として活躍するかを念頭において生きる必要があり、それがある意味すべてである。それはあたかも戦国時代の武将が最後の死に様を以下に派手派手にして後世にまで名を残すかと同じものであり、滅びの美学が垣間見えるものである。そんな侍が集うプロ野球にあって自分を如何に華やかに演出するか、そして観客を魅了することにより野球を楽しんでもらうかに余念のない選手がいる。そんな新庄選手がヒーローインタビューで引退宣言をするという派手な演出をしたが、その真実の程は不明である。たとえ引退しなかったとしても、それは新庄らしいと言われるところが新庄らしいのだが、確実に時は過ぎており、そう近くないうちに新庄の現役生活は終わろうとしているのもはどうしようもない事実である。戻る↑
記憶を辿ってみたところ、「ヘソだし」とは本田美奈子.の売り文句であったはずである。しかしながら日本の伝統文化として腹芸というものがあり、その素晴らしい文化を今に伝える場が酒の席のみであり、昨今はセクハラなどという外圧によりその素晴らしき伝統文化の日が消されようとしているのは嘆かわしいばかりである。
そんなヘソ出しにまつわる話であるが、このたびオーストラリアでチアリーダーのユニフォームにヘソ出し物を禁止するという極めて遺憾な決断を下したのである。その理由が「婦女子のダイエットしておなかをへこませないとかわいくないしモテモテにならない」という間違った強迫観念を植え付ける恐れがあるからというから恐ろしい限りである。そのような思想に取り付かれた婦女子の存在があることは認めるが、そのような思想に取り付かれた婦女子の実に9割はヘソ出しの服装をすることに後生だからやめてくださいとかそれって逆セクハラですという訴えをされることのない十分痩せている存在である。おっさんどものスポーツ観戦の楽しみの97%を占めているチアリーダの存在をなんと心得るかという素朴な怒りに端を発している本日の思い付き的なネタの披露であるが、大学時代の後輩がアメフト部のチアリーダをやっており、チアリーダは遠くから眺めるがよしという思いをボブサップ並に強くしたことをなぜか思い出してしまったのは内緒。戻る↑
人類の歴史とは過ちの歴史であるというネガティブな思考をする人がいる。しかしながら何が正しいとか何が適切であるかは経験を積まねばどうしようもないものである。ヘーゲルが歴史の必然性を「アウフヘーベン」という言葉で説明したのはそういった人間の歴史を適切に敷衍したに過ぎず、キルケゴールがこの哲学を拒絶し「自分がそのために生き、そのために死ねる真理」を探そうと思ったのは凡そ気の迷いと解釈するべきであり、レギーネ・オルセンという美貌の女性との婚約を一方的に破棄したのは自虐的な何かと解釈するべきである。かつては素晴らしい建材であると思われていたのに、肺気腫などのリスクファクタとして忌み嫌われるようになったアスベストも時代の徒花となるのはこの考えに基づいているのかもしれない。本日のクボタの微妙な決断は、日本的には極めて好意的に受け入れられるものであり、実質被害者を救済したものとして評価されようものと推測される。しかしながら、この経営判断は「裁判で有罪が確定していないのに無駄に会社の利益を使ってしまった」という判断を下した株主により代表訴訟が行われても致し方ないものでもある。日本的であると思われるのは、今回株主代表訴訟が行われた場合には「血も涙もない株主」と看做されたりする事である。戻る↑
ページの表紙の写真はページ開設以来粛々と更新を続けてきたが、どうも地域的な偏りがあり、ある都道府県はすでに十回ほどご登場願っているというのに、方や本日まで一度も登場することがなかったところもあり、なにげにその地域差が激しい。そこに立ち寄る頻度が低いから写真を撮ることも少ないという話は尤もらしいことではあるが、そこには良く立ち寄るけれど単に通過するだけで、そこが目的地となるものではない場合にはやはり写真に収める機会は少なくなろうものである。ということで、ページを開設してまもなく5年になろうとする本日、ようやく神奈川県にご登場願うこととなった。これにて47都道府県すべてが登場したことになる。ちなみにこの表紙用の写真のストックが現在100枚以上あり、毎週更新しても2年分、隔週であれば4年分ものストックがあるというから凄まじい量である。いつの日か今のように自由気ままに出かけることができなくなる日が来るからという言い訳のもと、必要以上に出かけて写真をとりまくっている人間にそんな日が来るのであろうかとうのは素朴な疑問にして直球一本勝負を挑まれているような気がする。戻る↑
ジェームズ・ワトソンとフランシス・ クリックという二人の新鋭科学者が、人の遺伝子情報が収納された塩基対の配列が二重螺旋であることをモーリス・ウィルキンスのX線写真から発見したのはせいぜい50年前のことである。その発見はトップ屋気取りのこの二人の若さの勢いに任せたものでフライング気味であったという説が専らであるが、それからのごくわずかな間にこの生命の神秘を解き明かさんとする科学者たちの熱意はこの不思議な二重螺旋に傾注され、気がつけば親子関係や犯罪者の特定にすら利用されているのである。科学の本質は人を幸せにすることであるが、拉致された本人の両親の遺伝子情報から自分たちの孫であることを鑑定できるという不思議なことにすら利用されているこの科学の最先端を行く鑑定は人を幸せにしたのであろうかは不明である。戻る↑
三春の桜は結局早いということが判ったので、本日はそちらとは方向が大いに異なる会津地方へと行くこととした。まずは会津の一ノ宮である伊佐須美神社に向かう。門前の茶店にはみそでんがくやさくらもちに並んでリポビタンDが売られているなどという味わいぶかさに直面するが、これもまた歴史のなせる業なのであろう。ということで思い直して境内に入るが、境内は楼門の建替えの真っ最中であり、その玄武白虎朱雀青龍の基壇四神石はアフリカ、南アメリカ、スエーデン(原文ママ)、福島県が原産地とワールドワイドである。境内に入れば三笠宮殿下御手植の松が鎮座するが、その回りに鶏が放し飼いになっており、御手植えの松は鶏糞まみれである。
こっそりとその鶏の群れに烏骨鶏が混じっているなど様々に味わいぶかさを鏤めた神社を後にし、塔のへつりを見学して大内宿に向かう。大内宿は昔の宿場町の佇まいを今に伝えるところであり、食堂や土産屋という昼間だけの町ではなく、きちんと宿泊ができるという現役の宿場町である。表通りは昔ながらの佇まいを残して電柱などという無粋なものとは無縁であるが、一歩裏側に回ったら冷房の室外機や電信柱や街灯があり、やはりこういうものなくして現在は生きて行けないのであろうということを思い知らされる。そんな大内宿を後にして牛乳屋食堂に向かう。手打ちラーメンと煮込みカツ丼を食して満足し、いざ帰路に着く。帰りに塩原で温泉に入りまったりと帰宅。戻る↑

ぼちぼち近所の桜も散ったが、東北地方はこれからが桜の季節であり、これからしばらく遠出をして桜をめでることができようものである。ということで、本日は三春の桜を見に行くべく出かけることとした。まずは温泉を楽しむべく二本松にある岳温泉に向かう。この温泉は以前出向いた折に極めて楽しい掲示がなされており、湯治に来た括約筋の緩い御仁が大騒ぎを仕出かしたものであろうと想像される「おなら厳禁の湯」である。
実はそんなのはネタに過ぎず、お湯の素晴らしさに感動し、黄金週間ともなれば満開となるであろう桜並木を愛で、東北の高原ゆえに存在しうる水芭蕉などを鑑賞してゆったりと時を過ごす。昼飯はニコニコ共和国議員食堂で名物のソースカツ丼に温泉卵をかけて食す。しかしてこの食堂の名物はこの昔と変わらぬ味を誇るソースカツ丼ではなく、このソースカツ丼を作っている大統領専属シェフの類稀なる太い眉毛である。そんな味わい深いものを満喫した後は更に車を進めて飯坂温泉へと向かう。ここでもまた結構なお湯を堪能し、本日の目的地である郡山に到着。郡山の宿にチェックインし、郡山名物は何かということを宿のコンシュルジュに聞いたところ、鯉であるということで郷土料理屋に向かう。郷土料理屋で鯉の洗いやホヤなどを食し、地元の純米酒に感動しつつ夜はふけていった。戻る↑
怖い顔をしている人は最初からハンデを背負っているものであり、同じことをしても怖がられれるぶんだけ損をしている。さらにはその顔で愛想よく笑おうものならば、子供がひきつけを起こしたりするなどずいぶんと顔が怖い人は住みにくいものである。民主党の代表選挙が執り行われ、小沢一郎氏がついに代表という表舞台に現れることとなった。毀誉褒貶のあるこの御仁は、実力があるが故に取り沙汰されているのであり、さらには怖い顔で裏に籠っているから更に存在感を増しているという不思議なめぐり合わせも加味されているのではないかと判断されようものである。かつて連立内閣の総理大臣という声がかかったときは「まだ俺の出るときではない」という断り方をしており、つまりは御輿に乗せられるのを潔しとしないわけなのであろう。テレビ番組で小泉純一郎首相との類似点を論った企画がなされていたが、そこでは年齢とか卒業大学とか親も政治家だったとか改革という言葉を常に発していることが似ていると挙げられていた。しかしながら、個人的に思う一番の類似点は、名前が「小」で始まり「一郎」で終わることである。しかしながら本日の小沢氏の代表就任が意味することは「かつての自民党」が日本の政治を完全に掌握したということであり、これから二大政党制がもし定着したならば、それは派閥争いの規模が大きくなっただけのことではないかと思われる。しかしながら、これは決して憂う話ではなく、これまで「イデオロギー」という名の感情でのみ対立していた日本の政治が、ようやく政策で対決できるようになったということも意味している。戻る↑
社会人生活もついに5年目に突入である。我が社でも遠き彼方にある本社で入社式が行われているのであろうが、はるか彼方にあるこの職場にはそのような便りは届かぬものである。代わりに届いたのは、本日より来ていただく派遣社員がインフルエンザに罹り、今週一週間は休むという連絡であった。当初は金曜日から来ますという人材派遣会社からの連絡があったのであるが、部長の「金曜だけきてもらったところで大して仕事にならんし、うつされた日にはえらいことやから来週からでええわい」と言い放ったことが事の真相だったりする。そういえば4年前には今はなき485系ボンネット型の雷鳥に乗って福井のとある隔離施設で入社式だの研修だのを受けさされていたことを思い出したが、その同期はいまや半数以下になっており、時の流れは凄まじきものなりと思うものである。戻る↑

昨夜より車を進めて秩父の道の駅で目が覚める。道の駅に車を置いたまま、御朱印をもらうべく秩父神社へと歩いて向かう。秩父神社は武蔵国の一ノ宮であるということを堂々と言う人もいるが、実は知知夫国の一ノ宮として君臨し、知知夫が武蔵に併合されたのは高々400年ばかし昔のことに過ぎない。そんな秩父神社で御朱印をいただき、意味不明な奉納された絵馬などを閲覧する。デムパがでているとしか思えないものや、何を書いているのかさっぱり判らないものや、自己完結してしまっていて何が言いたいのかさっぱり判らないものや、ここで市長になりたいと願かけしても仕方ないんじゃないですかといいたくなるものなど様々である。そのような味わい深い絵馬を見た後は日光をめざす。日光はいまだ寒々とした地であり、ところどころに残雪のあるいろは坂を駆け上がって目的地である中禅寺金谷ホテルに向かう。金谷ホテルでまったりと温泉を貸しきり状態で満喫し、春まだ浅い日光の自然を満喫する。その後二荒山神社中宮祠に参拝して帰宅の途につく。途中鹿沼で正嗣の餃子を食し帰宅。週末どっかにでかけないと気が済まないという自分の性分を考えると、まあこの程度で勘弁しておこうという気がしないでもない。戻る↑