2005年9月

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    今月の日記タイトル一覧(クリックするとその日の日記へ飛びます)

  • 9月30日(金)「阪神優勝と経済効果」
  • 9月29日(木)「三七日の逮夜」
  • 9月28日(水)「もすかうにまつわる四方山話」
  • 9月27日(火)「ケーブル火災無罪」
  • 9月26日(月)「気がつけばマニアックな世界」
  • 9月25日)「那珂湊」
  • 9月24日)「葛篭と防空頭巾」
  • 9月23日)「五輪招致」
  • 9月22日(木)「二七日の逮夜」
  • 9月21日(水)「ようやく来月からの予定が」
  • 9月20日(火)「関西とシンガポールの土産」
  • 9月19日)「散髪邪悪再び達成」
  • 9月18日)「ちょっとお休み」
  • 9月17日)「機銃掃射の動かぬ証拠」
  • 9月16日(金)「再び出発」
  • 9月15日(木)「久々に出社」
  • 9月14日(水)「とりあえずぐったり」
  • 9月13日(火)「こんな誕生日もありかな」
  • 9月12日(月)「告別式」
  • 9月11日)「通夜」
  • 9月10日)「すべては予定のうち」
  • 9月9日(金)「すでに投票してるんですけど」
  • 9月8日(木)「旅行はダブルで取りやめ」
  • 9月7日(水)「不在者投票終了」
  • 9月6日(火)「早明浦ダム貯水率100%突破」
  • 9月5日(月)「秋味の季節」
  • 9月4日)「となりでは集中豪雨」
  • 9月3日)「鹿児島料理堪能」
  • 9月2日(金)「ハリケーンに伴う人災」
  • 9月1日(木)「桟敷席入手完了」


  • 今月の日記
    9月30日(金)「阪神優勝と経済効果」
    阪神タイガース朝起きて飛行機に飛び乗り、昼から会社に出向く。阪神が優勝したので本日より優勝記念セールをやるなどということを聞くのだが、それとは別に阪神にまつわるうれしくない話も出てきた。フジテレビの買収の時に話題になった村上ファンドとやらが阪神電鉄の株そのものを買い集めているということである。阪神の優勝は9月7日の中日戦で確信を持っていたので、この時点で株を買っていれば今頃はうはうはだったよねえと思っていたのであるが、どうやらその値段は必要以上に吊り上げられていたらしい。阪神は他の関西大手私鉄と違い、バブル時に不動産投資をしようにも経営母体が小さくできないために指をくわえていただけだったのが幸いし、現在は極めて健全な経営をしているということである。それゆえに村上ファンドとやらに狙われたのであろうかと思われた。健全な会社はファンドに狙われ、不健全な会社は経営が成り立たないということで、なかなか会社というのは難しいものだ。戻る↑
    9月29日(木)「三七日の逮夜」
    つくばエクスプレスで秋葉原に向かい、山手線で浜松町、モノレールで空港へと到着。空港で朝飯ということで万世のカツサンドを食し、34Bなどという普通席では最高の席を確保していざ大阪へ向かう。本日は中陰逮夜であり、夕刻より法要が営まれる。告別式の時と比べ、家がよく掃除されていることを参列者は驚き、こっちも大概大変やったんやでと思いつつ対応する。読経が終わり、仕出し屋の持ってきた弁当を食し、お参りに来ていただいた親類を送り出したらもう夜の11時半であった。阪神が今日優勝を決めたのだが、明日も早いのでさっさと寝る。戻る↑
    9月28日(水)「もすかうにまつわる四方山話」
    恋のマイヤヒという曲がFLASH先行という珍しい形態で現在話題となっているが、真鍋かをりのブログでは次なるおもしろいFLASHを見つけたということで「もすかう」が話題となっている。もすかうをすでに半年前から知っていた人間にとっては今更驚くに値しないものであり、相変わらず無駄な情報だけは早耳であることを実感してしまう。ちなみにこのジンギスカンの「めざせモスクワ」という曲はNHKラジオ第1の土曜日の番組「キラリ10代!」のエンディングで使われていることを知っている人と、ブログを見て「俺って時代の最先端」と思い込んでいる人が全然被っていないんだろうなあ。普通、両方を知っていることってありえないんだろうということは、「もすかう」「キラリ10代!」でぐぐっても1件も引っかからないことから判ったりする。戻る↑
    9月27日(火)「ケーブル火災無罪」
    オーストリアのスキー場のケーブルカーで火災が発生し、日本人を含めて大量に犠牲者が出たのは5年ほど前のことである。この手の事件が起これば、日本では間違いなく経営者が逮捕されて有罪判決を受けることとなるし、マスコミがキャンペーンを張って日常の管理体制が如何に杜撰であったかということを必要以上に喧伝することは想定の範囲内である。日本で有罪判決が出される確率が諸外国と比べて著しく高い理由は、日本の検察や警察が優秀で証拠固めが的確であるという話が尤もなものとして広く知られているが、無責任なマスコミによる不思議な世論の構築というものがあり、これによって訳も無く一般市民の「あいつは悪者や」という民意が構築されてしまい、民意に応えるべき判決を出してしまうということがあるのではないかと思われる。この民意の構築とやらは結構厄介であり、無罪判決が出れば司法の堕落などという不思議なことがマスコミによって報道されるためその辺の抜かりが無いから困ったものである。刑事訴訟で罪が問えずとも、民事で賠償を勝ち取ることは可能であり、相手をギタギタにしないと気が済まぬほど日本人は残酷な思想を持ち合わせてはいないと思うのだが。ちなみにこの事故で当時の教え子の友達が犠牲になり、教え子が授業中に泣いていたことを思い出したりもする。戻る↑
    9月26日(月)「気がつけばマニアックな世界」
    ANA伊東美咲に唆されるよりも前からマイルをためることに余念が無かったのであり、如何にして巧みにマイルを貯めるべきかについて執心したことを否定するつもりは無い。周りの友人もまたそれについてかなり熱心であり、それなりにその話題で話をしたりすることもあった。そのせいであろうか、気がつけばマイルを貯めるノウハウについて相当なレベルにまで達していたようである。本日本屋でマイルのため方というノウハウ本が平積みされており、これぞマイルをしゃぶりつくすという文面であった。内容を見ていけば「そんなん知ってるけど」のオンパレードであり、こんな当たり前のことを羅列するだけで本になるというのは些か一般人をなめちゃいませんかという気がしたのであるが、どうやらこれは相当マニアックなまでにマイルのため方を高めているものらしい。気がつかないうちに凄まじいレベルにまで自分が達していたということは喜ぶべきものであるが、それが当然のことだとして他人に説明していたのはちょっとやりすぎだったようだと今更気がついたりする。自分が世間で云う所のどの位置にいるのかを冷静に判断することは難しいものだ。戻る↑
    9月25日)「那珂湊」
    秋刀魚箱買い本日は那珂湊へ秋刀魚の買出しに出向くこととした。友人が朝から水戸まで免許の書き換えに行くということでそれに付き合い、講習時間が暇なので大洗に出向いて大洗磯前神社の鳥居を見に行く。折りしも台風が接近しているわけであり、凄まじい波が鳥居には押し寄せていた。なかなかに味わい深い景色を堪能し、水戸に戻って友人を拾い、いざ目的地である那珂湊へと向かう。那珂湊の魚市場にある回転寿司屋は本日はかなり空いており、待ち時間がほとんどゼロで久々にうまい海の幸を堪能する。腹ごしらえを済ませて市場に出向き、今が旬の秋刀魚を箱ごと買ってついでに小鯵も買って帰路につく。しかしながら今月は温泉に入っていないなあということで本日は阿字ヶ浦の温泉に出向き、露天風呂を堪能しようとしたところ、台風接近に伴い露天風呂は閉鎖されているとの事であった。それでもまあ行くだけは行ってみようと決死の覚悟で挑んでみたところ、凄まじい風に襲われ、おまけに係員に「入らないでくださいって書いてあったでしょ」と怒られて内風呂を満喫するなど相変わらずの適当ぶりを発揮。その後自宅に戻り、秋刀魚を煮たり、なめろうもどきを作ったりして海の幸を満喫。戻る↑
    9月24日)「葛篭と防空頭巾」
    祖母宅の掃除も佳境に差し掛かり、祖母が生活していた部屋の押入れを整理することに着手する。押入れから出てくるのは冠婚葬祭のお供養である寝具やタオルの類であり、使っていた布団も大量に出てくる。押入れを更に整理していくと葛篭やリンゴ箱などが出てきており、中をあけると戦時中に使ったであろう防空頭巾が出てきた。祖母宅近辺は空襲に遭うことが無かったのであるが、まあ国民としてそういう備えは必要であったということであろう。台風が接近しつつあったので夕刻実家を出てつくばに戻る。空港で関西の土産を購入し、台風の影響を結構受け、やたらと揺れる飛行機に乗って羽田に降り立ち、友人宅で宴会をしてそのまま就寝。明日は久しぶりにゆっくりと出かけることができるというものである。この多忙なときに一日ぐらい何もしない日を作っても良いように思われるのであるが、まあそういう日が作れそうに無いスケジュールは当分の間続く模様。ちなみに会社では僕の異動が発表され部長は「人事が間違って辞令を出した」とお冠であったらしい。どうも予定では部署内でのレンタルで済ませようということだったのに、ということらしい。世の中思い通りには行かぬものだ。戻る↑
    9月23日)「五輪招致」
    東京オリンピックオリンピックや万博というものは国家の威信を高め、世界に広くその国力を知らしめるという目的で利用されるイベントである。しかしながらここ数回のオリンピックは商業化の波に流され、巨大なる国家、都市をもってしか開催が不可能となる傾向がうかがえる。次回のオリンピックで大阪が北京に負けたのは、国家の威信を高めるという旧来の目的を発揮するべしというモチベーションが現代のオリンピックの存在理由を上回ったからに他ならぬが、それに追加して言うならば、北京という都市の許容力が大阪という都市のそれを上回ったというのも理由に挙げられるであろう。本日、東京が2016年のオリンピック開催地に名乗りを上げたが、現代のオリンピックの開催理由が先ほど挙げた理由であれば、東京が開催地選考で破れた日には、日本でオリンピックを開催することはもう二度とないということになるのである。その辺までの覚悟を持ってオリンピック開催の怪気炎を件の石原知事が上げているのであればそれはそれで結構である。戻る↑
    9月22日(木)「二七日の逮夜」
    本日は二七日の逮夜であり、朝から眠い目を擦って羽田へと急ぐ。坊さんが来るのが午後2時ごろだということだったので、まあ朝8時に出れば間に合うと想定していたのであるが、親がとにかく早く来いということなので、これが限界でっせという時間に家を出て実家には10時半ごろに到着。以前の日記で自宅と実家がドアtoドアで5時間ということを書いたことから判るとおりで、いつお前は家を出たのかという話は自明である。そして到着したところ、特にまあ急ぎの用はなかったんだけど、まあ早いこと来てもらうと安心できるしという具体的な用事も無いのに呼びつけられたことがわかりちょっとばかし堪らない気持ちになったのは事実である。昼からの読経はつつがなく終了し、ご近所の親類もお参りに来ていただき逮夜は終了した。お供養をボケた振りして2個もらって帰ろうとした人もいたのであるが、その辺は適当にとりなしてひとつだけ持ち帰っていただいたのは当然の段取りというものである。ちなみに今回の帰省は本日のために帰ったわけではなく、明日からの3連休でいつ終わるとも知れない祖母宅の掃除に狩り出されたからに他ならない。戻る↑
    9月21日(水)「ようやく来月からの予定が」
    このところの休みがちの状況を見てか、課長が呼びつけて事の次第を説明しろと来た。こちらとしては不本意な異動とテーマの取り上げでモチベーションが下がり、しかも家庭の事情で多忙を極めており、しかも移動先での仕事内容もいまだに不透明であることから、こんな状況で仕事に注力できたらそりゃあんさん神でっせという話になり、ようやく移動先の課長と話をすることとなった。異動を言い渡されたときにきてもらったらこれやってもらうし、というテーマがいつの間にか後にまわされ、その代わりに聞いたことも無いプロジェクトに巻き込まれんとしているためどうも今後は厳しいものになるのかなあと思う反面、久しぶりに大学時代の生活ぶりが復活するのかという楽しみもあって何とか来月からの予定も立ち気合を入れなおそうという気になった。しかしながら現在のチームでの仕事は片付けてからだということで、いつ終わるか極めて不透明な仕事が積み残されたまま異動の辞令をいただくことになるのは確実である。やることが決まっただけでもよしとするべきであろう。戻る↑
    9月20日(火)「関西とシンガポールの土産」
    マーライオン休日は実家への帰省に費やしているため、平日ぐらいはゆっくり休みたいものであるが、そういうわけにも行かぬのが辛いところである。本日も体力の回復を目指すべく適度に手を抜いて仕事を行い、夕刻より友人宅で関西とシンガポールの土産を交換するという不思議なイベントを開く。関西土産は551の豚まんであり、シンガポール土産はマーライオンクッキーであった。友人いわくマーライオンはがっかり名所だと思っていってみたところ、最初しょぼいマーライオンを見つけてこれで正しくがっかり名所でがっかりできたと喜んでいたのであるが、その横にどでかい本物のマーライオンを見つけてしまい、がっかり名所でがっかりできなかったのでがっかりだということであった。僕が以前にシンガポールに出向いたのは19年も前のことであり、当時の記憶も些か薄れているものであるためマーライオンにがっかりしたという記憶は無い。ただ、ラッフルズホテルでシンガポール・スリングを嗜んだことは記憶にあり、どう年齢計算しても20歳になっていないのだがまあどうでもいいことか、時効だし。戻る↑
    9月19日)「散髪邪悪再び達成」
    QBハウス一晩過ごして、また祖母宅の掃除というか来るべき三七日の逮夜の準備が始まる。本日は座布団を納屋から取り出して天日干しして埃を払い、使えるようにした。普通に考えると自宅に座布団が30枚もあるわけが無く、そういう時はどこからか借りるというものであろうが、なぜか祖母宅には夏用冬用の座布団が然るべき枚数きちんとあり、昔の近所づきあいというものの濃密さを知らされたものであった。昼過ぎに祖母宅を出ていざ帰宅の途につく。空港でまったりと昼飯を食べ、羽田まで飛んであとはリムジンバスを使おうとしたのであるが、リムジンバスの出発まで時間があり、ならばということで第2ビルに新しく出来たQBハウスで散髪をする。日本の空港にあるすべての散髪屋で散髪をするという不思議な目標は以前に達成していたのであるが、羽田に第2ビルが誕生し、そこに事もあろうに散髪屋ができたとあって、再びコンプリートをめざすべく散髪する機会を虎視眈々と狙っていたのであった。セントレアに散髪屋が無いことはネット上で確認し、これで再びすべての散髪屋での散髪を終了させたことになる。ということで後はリムジンバスに乗って気持ちよく帰宅。それにしても対向車線が激しい渋滞であるにもかかわらず、都心から常磐道への首都高速は気分よく流れるものである。戻る↑
    9月18日)「ちょっとお休み」
    祖母が亡くなってから動きっぱなしであったため、本日休憩をすることとした。手伝いをしている自分は一度自宅に戻り再びやってきたのでそれほどしんどいとは感じていなかったのであるが、こちらにいてずっと動き回っている親にしてみれば、一日ぐらい休ませてくれよというところである。ということで、本日は久しぶりにのんびりゆったりと過ごし、ぼつぼつ次の逮夜に向けての対策を練りましょうということで落ち着いた。ちなみに何度も出てくる逮夜とは、初七日や四十九日などの法要日の前夜のことを示す。生物が生まれる最初の存在を生有、生まれてから死ぬまでを本有、死んだその時を死有、死んでから仏になるまでの間を中有(中陰)と仏教では分類しており、中陰の期間は故人が仏になるようにと祈るためにある。この期間は、七日ごとに七週間、四十九日まで法要を営むこととなっており、この法要を逮夜法要、あるいは一般にお逮夜とよんでいる。ということで、毎週木曜日に祖母の法要を営むこととなったのである。ちなみに逮夜の「逮」という文字はどんな文字かと聞かれると、「犯人逮捕の逮です」と答えざるを得ないことに何か気まずいものを感じてしまうのであるが、こればかりは致し方ない。戻る↑
    9月17日)「機銃掃射の動かぬ証拠」
    機銃掃射に用いられた弾丸(伝)本日も掃除は続く。本日のミッションは洗面所を使用可能な状態に修復することであり、掃除に精を出す。洗面所の掃除が終わり、居間の水屋と茶箪笥の整理を始めたところ、なかなか味わい深いものが出てきた。水屋からは大福帳や煙管、墨壷などという時代劇でしか見ないであろうものがごろごろと現れ、よくよく考えれば昭和の初期にはまだこれらの品物は現役であったことを漸うと知ることになったのであった。そんな歴史を感じさせる逸品の中にこれまた素晴らしいものが見つかった。第2次世界大戦末期に祖母宅近辺がアメリカ軍の機銃掃射を受けたという話は小学校時代の社会の時間に勉強したので知ってはいたが、その動かぬ証拠である機銃掃射を受けたときの弾丸が出てきたのである。戦跡や装備に詳しい友人に確かめてみたところ、太平洋戦争末期の機銃掃射は一般的に12.6mm弾を用いていたはずだということであった。しかしながらその弾丸の直径を計ってみてもせいぜい8mmぐらいしかないという事を伝えると、じゃあ7.7mm弾で機銃掃射をしていたのではないかということに落ち着く。とりあえずこんなところで60年間も眠っていたとは驚きであった。戻る↑
    9月16日(金)「再び出発」
    昨日は忌引の手続きと明日からまた休みという伝達のために会社に行ったようなものであり、実質何も仕事が進まぬまままたもや実家へととんぼ返りである。祖母宅では本日も仕事が進むが、およそ気密性という言葉には縁が無い典型的な日本家屋であり、家の回りあちこちには水溜りがあるため蚊が再生産されるシステムが見事なまでに構築されている。そのため祖母宅に向かって最初にやることは蚊取り線香のセッティングであり、葬儀のときに葬儀屋がやっていたプロのテクニックであるところの3巻同時着火などという高等テクニックが欠かせぬものである。本日は台所より裏口に抜ける廊下に置かれていた大量の荷物を処分し、ようやく決死の覚悟をもって通り抜けられる裏口へのアクセスが一般人でも可能となった。それにしても祖母は物が捨てられぬ性分であるのみならず、どこからとも無く特に使う当ても無いのに何ゆえかもったいないという思想の元に物を取ってくるため、凡そ祖母の趣味には合わぬ品物がかなりあり、一体全体祖母はどういう生活を送っていたのであろうかと悩みは尽きない。冠婚葬祭の引き出物などは近所づきあいの多かった祖母らしく大量に発見されるのであるが、調味料は未開封の10年選手であったりでそのままお隠れになっていただくものが多く、掃除は前途多難である。戻る↑
    9月15日(木)「久々に出社」
    自宅のベットで朝目を覚ますのは久しぶりだなあと考えつつ、ずいぶんと久しぶりに会社に出向く。会社で上司に事の次第を説明し、明日休むことと、これから先10月一杯まで毎週木曜日は休むという事を伝えて仕事に戻る。10月よりほかのグループに異動となることが幸いしてか、現在大きなプロジェクトは抱えておらず、そのため休んだところで仕事が滞るものではない。しかも新たな配属先の方も、当初やるべき仕事が始まる気配を見せておらず、謀らずしも現在は仕事が暇な時期となってしまったのである。ということで、後顧の憂い無く、たっぷりと年次休暇を消費することとなった。これもまた、祖母の差し金だろうか。戻る↑
    9月14日(水)「とりあえずぐったり」
    朝起きて自宅に戻り、そのまま記憶が途絶えるかのように爆睡を決め込む。目が覚めたらすでに夕方であり、よほど疲れが溜まっていたのだなあとこの数日を反芻してみる。とりあえず悩んでみたことは、ここ数日のことは果たして日記に書いていいものかということであった。書くべきことではないとは思わないわけであるが、書いてどうするものでもないし、読んだ人が気を悪くすることもあったりするわけで書く必要が無いといえば無いのである。しかしまあ、何か悪いことをしたわけではなく、誰もが必ず立ち会う場面であることからできるだけ書いてみようということに落ち着いた。ただし、当分は忙しくて日記の更新など侭ならぬものであろうから、いつ落ち着いて更新できるかは分からないというものであるが。部屋の片づけをして本日は終了。戻る↑
    9月13日(火)「こんな誕生日もありかな」
    葬儀が終わったとはいえ、いまだに何も片付かない祖母の家は次なるイベントである三七日のためにいざ掃除に取り掛からねばならないのである。祖母は戦争を体験したためであろうか、物が捨てられない性分であり、しかも農家なので収納スペースはいくらでもあるというわけで、使わないものがこれでもかとばかりに出てくる。思えば祖母の自宅で葬儀をやるというのは、他人の家で葬儀をするようなものであり、もとより相当厳しいハードルであったようである。そんなわけで相当くたびれて本日ようやく自宅に戻ることとなる。伊丹空港に到着し、関西の土産をたっぷりと買い求めていざ東京へ。体力も無くふらふらであるが、友人宅に立ち寄り関西土産で一杯やってそのまま没する。思えば本日は誕生日であった。こんなに慌しくて誕生日を意識しない誕生日も珍しいなあと思ったのであるが、むしろこんな誕生日のほうが珍しいので、これもまた印象に残るものではないかと思ったりもしたのであった。戻る↑
    9月12日(月)「告別式」
    朝からとりあえず、祖母がなくなったので葬儀に参列するためしばらく休みますと会社に連絡する。電話口に出てくれた同僚が、「うえだくん、それやったら事務に連絡せんとあかんで」と言ってくれたので事務に電話をするが、事務方は必要以上に飲み込みが悪く杓子定規であるため、「祖母が亡くなりまして」とフォーマルな言い方をしても「あ?」と理解してもらえないので「ばあちゃんが亡くなりまして」でようやく通じるし、忌引きなのでいろいろ聞くことがあるけど何聞かなきゃいけないかは自分の机に戻ってみないと分からないから後から電話かける、と一方的に電話を切り、朝から告別式で忙しいというのにのんびりと電話をかけてきて「うえだくんの住所はどこだっけ?」などと社員名簿見たら分かりそうなことまで聞いてくるし、住所に含まれる漢字の説明をしても「俺その漢字書いたこと無いからわからねえんだよ」などというふざけた事まで言い出す始末。分からなかったら郵便番号入力してパソコンで変換してくださいよ、と伝えて連絡は終了。本日も昨日の通夜に続き玄関口で参列者に挨拶することとなる。葬儀屋の担当者が演歌の花道よろしくの語り口調で葬儀の進行をつとめ、告別式は滞りなく終了。祖母の遺影を胸に抱いて斎場へと進み、然る後に祖母は遺骨となって家へと戻ってきた。遺骨が戻ってきたので初七日を営み、実家へ引き上げる。全員疲労困憊しており、そのままぐったりと眠る。戻る↑
    9月11日)「通夜」
    一夜明ければ祖母の死というのは現実的なものとなる。本日は遺族として通夜をせねばならぬのである。朝から葬儀屋が来て納棺と相成る。遺族というか孫として兄とともに祖母の遺体を納棺するときに手伝いをするが、あくまで足の辺りを軽く持つだけであり、メインどころの仕事は葬儀屋さんがやる。葬儀屋のコンビはベテランと若手であり、若手がおっかなびっくりで祖母の遺体を持ちお棺に入れようとしたときに、ベテランが小声ながらドスの効いた声で「腰入れんかい!」と囁くなど葬儀屋の厳しい現実も見せていただく。夕刻より通夜が始まるが、座敷に上がってお経を聞くのではなく玄関口でお参りに来ていただいた参列者に挨拶するため、夜とはいえ蒸し暑い中での立ち番は結構つらいものがあった。お経が終わり、親族に食事を振舞ってお帰りいただく。これでようやく一息つけるかなと思ったが、本日の線香番に当たっているため、うとうとしながら夜を過ごす。ちなみに生前の祖母が気に入っていた庭を参列者に見ていただこうなどという不思議なコンセプトで葬儀社に設営を頼んだ喪主である父はとっとと帰宅したのであるが、庭を見せるために雨戸も窓も全開となる状態で白い幕が張られており、雨戸も窓も閉めることができずこれはまさしく蚊の餌食となるため、蚊取り線香という煙幕を身の回りに大量に焚き込めてそれに対抗することとした。その結果、蚊などという姑息な吸血鬼からの攻撃は見事に回避できたのであるが、夜中でも尚煌々と明かりをつけていたため、蚊よりも恐ろしい蛾が襲い掛かってきたのが計算外であった。お陰で眠れなかったから線香は絶やすことが無かったのであるが、もしかしてこれも祖母の計算のうちだったのであろうか。戻る↑
    9月10日)「すべては予定のうち」
    つくばより実家に戻るにはドアtoドアで5時間が必要であり、これは新幹線を使っても飛行機を使っても同じである。本日は入院している祖母を見舞うべく、昼前には実家に着くように手配した飛行機でいざ行かんとした。信じられないまでに交通機関の乗り継ぎが順調なままに自宅の最寄り駅近辺まで来たときに兄より電話があり、とりあえず事態が急変したので病院へ直行せよということであった。只ならぬ事態に駅前のタクシーだまりに予約車という字幕を出してアイドリングしているタクシーに飛び乗り、病院まで行ってもらうこととした。病院に着いたところ祖母は自発呼吸が止まったということであり、挿管してもらってとりあえず生きながらえているという状況であった。これ以上の延命措置は望まぬということを了承し、酸素の吸入だけをしてそのときを見届けることとした。兄の奥さんが駆けつけ、そのわずか30分後に祖母が天寿を全うしたのであるが、先週倒れたときから一度も意識を恢復することなく、一度も苦しむことなく旅立つという最期に寂しいがなんだか羨ましいものを感じたものであった。それよりも本日全員を集めることは祖母が指示したわけでもなく、全員が集まってから旅立つとはこれもまたすべて予定通りだったのかも知れぬと思ってしまうものであった。生前祖母は自分を「用意周到な女」と語っていたのであるが、祖母宅に戻ったところ、すでに座敷は生前の祖母により掃除されており、遺影の選択も終わっており、棺に入れてもらいたいものまですでに準備されていたとこらへんに用意周到振りが見て取れたのはどう解釈するべきなのだろうか。坊さんに枕経をあげてもらい、葬儀屋と通夜と告別式の段取りを相談して本日は終了。戻る↑
    9月9日(金)「すでに投票してるんですけど」
    絶妙のピン刺し中吊り広告選挙戦は終盤を迎え、どの候補者も最後のお願いとやらに上がっているらしい。最後のお願いに上がるというのは、「選挙が済んだらもう頼まねえよ、手前ら愚民どもは用済みなんだよ」という事ではないかと勘ぐれなくも無いが、この選挙ではもうあとでお願いに上がるチャンスが無いのですという風に受け取れなくも無い。ということで帰宅するとポストには数多くの候補者のビラが入っており、我々国民が投票するけれどそのビラが入っていないというのは最高裁判所の判事の国民審査ぐらいのものである。しかし困ったことに、今更お願いされてもすでに不在者投票は済ませているわけであり、変えようが無いわけである。しかしながら先日、大江戸線の中吊り広告にこの選挙の投票を呼びかけるものを見つけた。大江戸線は車両が小さい故に中吊り広告が横から見るとY字型になっており、両面の接点はピンでつながっている形となっている。ポスターでそれを狙って作成したわけではあるまいが、ここまで巧みに加藤あいの鼻にピンを刺すことができたのは、選挙ポスターの鼻とか目にピンを押すかのごとくのいたずらが公然と行われていることは笑うべき事態である。戻る↑
    9月8日(木)「旅行はダブルで取りやめ」
    トキ(イラスト)昨日不在者投票を済ませたのは今週末の用事のためであったが、今週末の用事は佐渡行きであった。しかしながら、祖母が脳梗塞でぶっ倒れたということで、今週末は見舞いに出かけることとしたので旅行は取りやめた。更には来週は家族で北海道行きという計画もあったのだが、これも返上することとなった。バースデー割引とやらで廉価な切符を購入した代償は殊の外大きく、キャンセル料をしこたまとられたのであるがこればかりは仕方がない。早いうちに確定を出すからこそ安く買えるし、安いからこそキャンセル料もふんだくるのである。キャンセルした席はもう一度定価で売りに出すことを考えるとずいぶんとおいしい商売であるように思われなくもないが、2ヶ月前に予定が立たない人はそもそもこの廉価な料金システムを利用しようとは思わないわけであり、利用者と売り出し側の両者の利益の分岐点が複数あると考えれば、これはまことに結構なシステムではないかと思われる。まあこれまで数回良い思いをさせていただいているわけであり、こういうこともあるさと割り切るべしである。戻る↑
    9月7日(水)「不在者投票終了」
    週末は予定があるため、このたびの国政選挙は打っ棄るか不在者投票をするかという選択肢があり、どうもつくばでは県知事と県議会議員の選挙までやらかすということなので、まあそれならば不在者投票でもしてやるべえかと会社の帰りに大穂にある旧庁舎に出向く。つくばは昭和の末に近隣の町村が合併してほぼ今の姿となったが、各庁舎が支所として業務を分担しており、意外なことであるが転入届は市役所に出すのではなく最寄りの庁舎に出すこととなっている。まあそれとは関係なく不在者投票は各庁舎でやっているようで、出向いたところそれなりに人がやってきた。それにしても自分の選挙区に誰が立候補しているかをまるで理解しないが、とりあえず投票って出来るものだなあと思った次第。戻る↑
    9月6日(火)「早明浦ダム貯水率100%突破」
    貯水率100%の早明浦ダム西日本に情け容赦なく雨風をぶちまける台風がのっそりのっそりと迫りくるが、その遅さゆえに西日本では必要以上に雨が降っている模様。降り始めからの雨量が1000mmを超えるとかいう何か間違ったことが起こっているようであり、日本三大げっそり国道の265号はこの雨で寸断され、椎葉村は陸の孤島となってしまったらしい。この国道は2度挑んでみたのだが、よんどころなき事情でいまだに完走が出来ぬままであり、このたびの災害でまたもやしばらくは通行が侭ならぬものである。そんな生々しい傷跡もあるが、一方でうれしい話も出てきている。渇水のときに必ずクローズアップされる悲運のダムである早明浦ダムはご多聞に漏れずこれまでの貯水率が0%であったが、降り続ける雨により一晩で貯水率が100%を超えてしまったのである。貯水率というのは曲者であり、発電用の水は貯水率の計算には勘案しないため水があるのに貯水率0%ともなるし、今度はダムが溢れるわけでもないが貯水率は100%を超えているわけであり、どうも我々の数字から受ける印象とは異なる現実が貯水率には反映されているようである。ちなみに今回の台風一発でダム満タンという事実は、早明浦ダムがしょぼいのではなく、台風が凄まじいのである。痩せても枯れても西日本一の貯水量を誇るダムであり、単位時間当たりの流水量が日本一である吉野川にあるダムである。戻る↑
    9月5日(月)「秋味の季節」
    秋味秋といえば食欲の秋であり、秋を呼ぶ食物といえばマツタケと秋刀魚である。秋にこそ飲むべしというビールが今の時期のみ限定で発売されており、本日は早速近所のカスミで購入し、秋刀魚の刺身で気分よく一杯やる。京都にいたころは秋の味覚といえば栗とマツタケ、そして柿であった。茨城に移り住み、それが秋刀魚に変わったことは内陸と海辺の生活環境の違いといえようものであるが、内陸にあり近所にはやたらでかい湖があり、海までは些か離れているという立地条件はかなり類似しているのになぜここまで違いがあるのだろうかと考えてみたがよく分からない。とりあえず秋はうまいものが目白押しであり、これから先もうまいものが目白押しである。戻る↑
    9月4日)「となりでは集中豪雨」
    茨城県の県南地域を研究学園都市とすることにしたときの理由は、東京からさほど離れていないということと広大な土地が確保できることであったはずで、気候が穏やかで災害が少ないということはそれほど勘案されていなかったと記憶している。しかしながら本日の夕刻より、南西遥か1500kmのところでとぐろを巻く台風により巻き込まれた水蒸気が秋雨前線を甚く刺激し、お隣のエリアでは激しい集中豪雨に見舞われていたらしい。ひっくり返って溜まっていた録画を消化していたところ、やにわに空が曇ったので北関東名物の落雷でしょうかと思い、とりあえず晴れているうちに買い物に行っておこうと出かけ、雨が降る前に無事帰宅。よるテレビを見ていたらそこらじゅうで警報が出まくりであり、花の都大東京は水没していたというから恐ろしい。先般より台風が関東地方を蹂躙することが数多くあるが、どうも茨城県の県南地域は土浦か水戸の予報官が依怙地なのか気候が穏やかなのかは不明であるが、警報が出ないのである。ということで、本日も静かに特に何の騒ぎも無く過ぎ去っていったのであった。戻る↑
    9月3日)「鹿児島料理堪能」
    昨晩より友人宅で宴会を開き、つくばエクスプレスが出来たことだし、東京にうまいものでも食べに行こうという話がまとまった。ということで本日は夕方より東京へうまい薩摩料理を食べに行くこととした。つくばエクスプレスは北千住より秋葉原までは不思議な料金設定となっており、北千住からはさっさと日比谷線や半蔵門線や常磐線に乗り換えるということが正しいのではないかと思ってしまうところがあったりする。実は何気に思うことなのであるが、この鉄道の恩恵を受けているのは、「我田引水」ならぬ「我田引鉄」をしている某国会議員の票田である浅草ではないかと。そういえば半年ほど前に浅草に行ったときと今とでは、所要時間も何もかもが違っていたし、東京都内であれほどつくばエクスプレスの開通を喜んでいる地域も他に無いように思われる。そんな思惑はさておき、場所は先週も行った日比谷の店であり、うまいつまみをやりながらちびちびとうまい焼酎を頂く。いやあ、東京に飲みに行くということが普通にできるという時点で別にわざわざ浅草を通れるようになったところで問題ないし、浅草にも行きやすくなるんだから何か文句の出ようはずが無いんだけどなあ。戻る↑
    9月2日(金)「ハリケーンに伴う人災」
    ハリケーン日本では、かつての自然災害による死者が大量に出ていたのであるが、最近は全盛期よりも2桁ばかり少ない被害者で事足りている。この原因は無駄だ無駄だと文句ばかりが取り沙汰されている河川改修等の公共事業によるものであり、何を以ってその基準を推し量っているかは不明であるが「50年に一度の災害」とやらを防止できるから毎年来るような台風ではびくともしませんぜというものである。日本はそのようにして我々の財産を守ってくれるべくがんばっているのであるが、アメリカはどうもそう簡単なものではないらしい。カトリーナかテロテアリーナかは不明であるが、とにかくハリケーンという自然災害により、数多くの死者が出ているようである。死者の数でのみ自然災害の規模を推し量ろうというのは比較するべきものとして単純であり、身につまされるところから大いに支持されるべきものかもしれないが、日本の凄まじいまでの厳しい基準と、そこいらの緩々の基準しかクリアできていない堤防や建築物を斟酌した場合に、多分に桁一つか二つほどの違いは考慮するべきものであり、台風自慢をする気持ちが無くともアメリカにおいでまされたハリケーンは被害者の数から妄想されるほどのものではないと考えられる。しかしながら一番理解しておかねばならないことは、避難勧告が出ていたところで避難しないために死んでしまった人がたっぷりいることであり、その理由に「何物かに略奪されることが怖いから」というのは日本ではありえない話である。火事場泥棒というのが日本では「人の弱みに付け込む極悪非道な行為」とされているのに対し、アメリカでは「災害で自分のものが無くなったので調達してみただけのこと」と嘯く人がいるというから困ったものである。これはハリケーンによって惹起された人災の被害者と呼ぶべきものであり、ハリケーンによる死者と呼ばれた日には、メキシコ湾でハリケーンは萎縮しながら成長せざるを得なくなるであろう。戻る↑
    9月1日(木)「桟敷席入手完了」
    桟敷席のチケット桟敷席の予約というのはステップがかなり多い。昨晩の体育館観客席の席取りは無事終了したが、本日は朝8時に体育館に出向き、押さえてあった席に座らなければ整理券がもらえないのである。ということで、何が何でも8時に席に着くという不思議なことをやるために体育館の前は必要以上に車が犇めき合っていたりする。8時に無事整理券が配られ、8時半より桟敷席の発売が始まる。しかしながら整理券の番号は700番台であり、これは昼前、下手をすると昼過ぎに発売ということになりそうな勢いであった。一旦自宅に戻ったのちに会場に戻り、漸く番号を呼ばれた後に席を購入したときすでに12時を過ぎていた。体育館から会社へは確か昨日来た時は40分ばかしかかった記憶があるので、これは世間で言うところの午前半休で収まるものではなく、年休ということになるものである。しかしながら本日はやる気が湧き上がらなくともしなければならない仕事が山積みであり、年休となっても会社に出向かねばならないというわけで、久々に人には言えないお行儀の悪い関西走りをして会社の午後の始業時刻には間に合わせることに成功した。その後仕事をしていたら無性に腹が減っていることに気がつくが、まあそれは昼飯を食っていなかったからだということに気がつくには少しだけ時間がかかったりするものである。とりあえず来月のイベントはひとつ確実に予定に組み込まれたということで大いに満足。戻る↑